今年印象に残った言葉③

どうせなら、3つとも書き終えて、新しいパンツに履き替えた様な、すかっとした気持ちで元旦を迎えよう。

芸術に賭けようとするくらいの人間なら、自己愛と自己嫌悪は猛烈に渦巻いている筈だ。それを殺すことはない。もっともっと激しくのたうち、からみ合わせる。その相克は人間の究極のドラマだ。しかし、乗り越える方法はある。乗り越えなければならない。それが芸術なんだ。-岡本太郎

私は結構、自己愛、つまりナルシズムと言うものに嫌悪感がありまして。
SNSなんかで、やたら自分の写メをupする人達とか、露骨に態度に出る人とか苦手なんですよね。
じゃあ、お前はどうなんだと言われると、あるんですよね、自己愛。
割合で言えば、9割くらい嫌いな部分なんですが、たまに自己愛を自覚してしまう瞬間がありまして、それがまたたまらなく嫌で。
自己愛が全くなければ、おそらく人間は生きていけないだろうと言うことは、承知してます。
でも、だからこそ、それを普段は嫌悪感で覆い隠して、見て見ぬ振りをしてるんです。
それで、思うわけです。
他の人はどうなんだろう、と。

自分と同じ様に、自己愛と自己嫌悪の揺り戻して参っている人や、自己愛がダダ漏れしている人はわかりやすいので良いのですが、そうではない方々は、どの程度自己愛に自覚的なのだろうと。

たぶん、たぶんですけど、ほぼ無自覚なのではないでしょうか。
きっと、生存の為に必要最低限な分量の自己愛には、無自覚なはずです。
臓器を動かすのと同じ様なものではないでしょうか。
そんな当たり前のことを掘り下げてしまうから、私たちは「あれ?呼吸ってどうやるんだっけ?」となって、窒息しそうになるんですよね。
書いていてバカバカしいですが、こう言うことを考えること自体、濃密な自己愛の垂れ流しでしかないんでしょうね。気持ち悪い。

岡本太郎氏は、『芸術に賭けようとするくらいの人間』に絞って発言されていますが、凡人も内側に自己愛と自己嫌悪を渦巻かせていてもいいのでしょうか。
アウトプットが出来ず、どこかで破綻するのでしょうか。

そんな全てをゆっくりと諦め、翌朝には萎んでいる風船の様に、この渦巻く何かをちょろちょろと漏らしていける日が来ることを祈って、新年を迎えようと思います。

みなさま、良いお年を。

今年印象に残った言葉②

2つ目は、ある本の中の1節で、かなり目から鱗のこぼれる言葉でした。
しかし、それを知ったのは他人様のブログでした。

最初はそのブログを引用させて頂いて書こうかなと思ったんですが、なんかそれも違うなと思いまして…。

今年印象に残った言葉②はお蔵入りにすることにします。

もちろんその本は、実際に読んでみたのですが、ブログでその一節を見た時の驚きは感じられなくて、ただ淡々と読み終えてしまいました。
しかし、繰り返し読めば何か掴めるんじゃないかと感じたのです、またしばらく間を置いて、再読したいと思います。

今年最後になるかもしれないブログが、こんなもやっとした感じでいいのだろうか。笑

今年印象に残った言葉①

今年、印象に残った言葉が3つありました。

3つともブログに書きます。
書くでしょう。
たぶん、きっと。
年内には。
早ければ年内には。。
いつかきっと。。

まず1つ目は、今年6月に癌で亡くなられた小林麻央さんの言葉です。

「人の死は、病気であるかにかかわらず、いつ訪れるか分かりません。例えば、私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。

『まだ34歳の若さで、可哀想に』

『小さな子供を残して、可哀想に』

 でしょうか??

 私は、そんなふうには思われたくありません。なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです」

年齢も2つしか違わないので、かなり衝撃を受けました。
会社に来る私と同い年のヤクルトの配達員の女性は、同じ子供を持つ親としての側面もあるからでしょうか、よりショックが強かったようです。

その時に、私が一番に感じた事は、小林麻央さんが「そんな風に思われたくありません」と仰っている事そのままでした。
それだけに、この麻央さんの言葉を拝見した時は、申し訳ない気持ちになりました。
そして、同時にハッとしました。

私は、物事の悲劇的な側面だけを抜き出して捉えてばかりだと思いました。
自分の人生を振り返った時、幸福な終わりを迎えた出来事など何もなかったと考えるのが常でした。
しかし、楽しい時間や幸福な時間は、間違いなくありました。
その事に気付かせてもらいました。

考え方を180度変えて、ポジティブ人間になろうとは思いません。
でも、これからは全ての事を平等に、そしてありのままに捉えていける様になれればと思います。

印象的な夢の話

他人の夢の話ほど、つまらないものはないですけどね。(どんな入りだ)

つい最近見た夢ではなくて、小学校の低学年頃に数回見た夢なんですが、すごく印象に残っていて未だに思い出します。

場所は、通学路の途中の緩やかな坂。
2車線で、進行方向右側は舗装どころか草刈りもまともにされていない歩道、左側は切石の歩道です。
とは言え、綺麗なものではなく植えられた街路樹の根が張り、でこぼこでした。

坂のちょうど中腹あたりには、同級生の家が建っています。
2階建ての白くて大きい家です。
父親が宝石商のような事をしていて、裕福な家庭だったと記憶しています。

そして、私はなぜか車道の真ん中に立って、その家を見ています。
しかし、その家や歩道、背後にあるそこそこ大きいホームセンターにも、人の気配が全くありませんでした。
車も一台も走っていません。
動くものが一つもなく、静かでした。

それで、何がそんなに印象深い(=奇妙だった)のかというと、朝なのか昼なのか夜なのか、全くわからないと言うことです。
人気や車の往来のない事を考えると、深夜なのかもしれませんが、それにしては周りがはっきり見えてるんです。

ただ、空だけが真っ暗でした。
曇っているのではなく、真っ黒なんです。
太陽はもちろん、月や星もありません。

暗幕をかけられた様でした。
見える範囲においては、きちんと立体感はあるんですが、視界の終わりぴったりに暗幕をかけられている、そんな感じです。
夜の帳が下りるのが見えたら、こんな感じかもしれません。
作り物めいていました。

奇妙な風景なんですが、恐ろしいといった感情はなく、当時も今も「魅力的だなあ」と思っています。
いつかあの風景を実際に見てみたいです。

ちなみに3才くらいの頃、その同級生と遊んでいて誤って、頭に鎌をぶっ刺して怪我を負わせてしまった事件がありました。
反省しています。

地球温暖化の影響で餓死するホッキョクグマ

地球温暖化の影響で、餌であるアザラシが居なくなってしまい飢えてしまったホッキョクグマだそうです。
餌を与える事は禁止されているため、しばらくのちには餓死してしまっただろう、との事です。

正直、地球温暖化というものを実感しているかと言われると首をひねるところではあるのですが、やはりこんな痛ましい映像を見ると認識を改めなければいけないのだろうと思います。
野生のホッキョクグマですら、こんなに痛ましいのにこれが自分の愛する動物や、そして人だったらと考えると…。

人間という種類が自らの過ちのせいで滅びるのは仕方ないのだとしても、罪のない動植物までも道連れにするのは、恐ろしく罪深い事じゃないでしょうか。

ミサイルを飛ばしたり、罵りあったり、信仰の違いで殺戮し合ったり、そんな事をしてる場合ではないのに、何故そんな狭い世界でしか物事を見られないのでしょう。
それとも、生き物とはその程度でしかないんでしょうか。
そんな程度の生き物が、地球の環境を捻じ曲げてしまえる様な力を手にしてしまったのが、不幸だったんでしょうか。

少し恥ずかしい話

はてなブログを始めて間もないので、読者登録しているブログ様は多くないのですが、その中でも坂津さんの「かなり」は楽しく拝見させてもらってます。
奥様と仲睦まじい様子は微笑ましく、仕事のお話は非常に頼り甲斐のある上司っぷりが凛々しく、憧れます。

で、坂津さんが先日書かれた記事。

こちらに何の気なしに初めてコメントを書かせて頂いたんですが、やらかしてしまいました。
記事にスターをつけたつもりが、恥ずかしい事に自分のコメントにスターをつけてしまいました…
恥ずかしいっ///


そもそもコメント書いてよかったのかもわかりませんし、この事を自分のブログに書いても良いのかと悩みながら書いております。
坂津さん、色々と申し訳ありません。

そして、わたしのコメントにスターをつけてくださった方がお二人いて、なんかそれも逆に恥ずかしいです。苦笑

なんかはてなブログって難しいですね。うーむ。