世の中が考え過ぎていく

先日、34歳になりました。
たまたま日曜日でしたので、普段の休みと変わらず、YouTubeで落語を見ながら、一日を終えました。

落語って馴染みなかったんですが、面白いんですねぇ。
取っ付きにくいものだと決めつけてましたが、勿体無いことをしてました。
たまたまテレビで、故・三代目桂春團治さんの「代書」を見て興味を持ちました。
落語の話も、後日したいなと思っています。

それはさておき、YouTubeを使っていると動画の前にCMが入る事がありますよね。
普段は可能であればスキップするのですが、そうしなかったCMについてお話ししたいと思います。

そのCMがコチラ。
三井不動産 BE THE CHANGE TVCM 「スーパーなひと」篇

出演されているのは、生まれつき両腕がなく、その代わり両足で演奏するギタリスト、ジョナタ・バストスさんです。

ギターを始めて約5年、未だに簡単な曲をも弾ききることの出来ない私からすると、驚愕の技です。
「人間というのは練習すれば、ここまで体を操ることができるのか!」と感動し、これならば自分も将来、人並みにギターを弾けるようになるのではないかと励まされました。

ところが、このCMはそんな「ポジティブな気持ちの中にも、小さな偏見は生まれているかもしれない」と言うんですね。
少し前に、話題になった感動ポルノと言われるものかもしれません。

もちろん、ご本人からすれば、一番重要なのは音楽であり、手で弾いているか足で弾いているかは関係ないのでしょう。
それは充分に理解できます。
そして、我々も同じように感じて欲しいと言うことなのでしょう。

しかし、それは可能でしょうか?
そして、それは必要でしょうか?

私は、可能だとも必要だとも思いません。
みんなそれぞれ違います。当たり前のことです。
顔が違う。
声が違う。
性格が違う。
性別が違う。
腕がない。
それらの違いを、相手を貶める理由にすることは許されません。
でも、そうでないなら、違いはあくまで違いであり、それ以上でもそれ以下でもなく、ありのまま受け止めればいいし、意志の力で捻じ曲げる必要のあるものではないと思います。
その上で、自分がその他者に対して、思いやりのある行動を取れるかどうかが肝心なのではないでしょうか。
(それも思いっきり綺麗事ですけどね)

ここ最近、同じように平等を叫ぶ声をネットで目にします。
しかし、それらを見るたびに違和感を感じるのです。
平等に。平等に。
みんなが同じように。同じように。
足並みを揃えるのか。
出る杭を打ち込んでいるのか。
上からも下からも、平等を強いられ、まるで巨大なローラーで挟まれて平らにされるようです。

今まで当然だと思っていたことが、ひょっとしたら誤りだったのではないか?という思考が、社会に蔓延していく様子は、普段から考え過ぎな私からすれば、嬉しいような悲しいような恥ずかしいような複雑な気持ちです。

にしても、このCM「スーパーなひと」篇というタイトルが付いてますが、つまりそれって…