物事の表面しか見えてない事って、たくさんある
一人遊びって割と得意です。
そんな一人遊びのうちの一つが、映画。
The・娯楽だし、好きな人多いと思います。
私の場合は、劇場に足を運ぶのは年に数回で、主にレンタルしてきて、家で見る事が多いです。
それで、最近見た作品がコチラ。
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2017/07/21
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平和な田舎の村に、得体の知れないよそ者がやってくる。彼がいつ、そしてなぜこの村に来たのかを誰も知らない。この男についての謎めいた噂が広がるにつれて、 村人が自身の家族を残虐に殺す事件が多発していく。そして必ず殺人を犯した村人は、濁った眼に湿疹で爛れた肌をして、言葉を発することもできない状態で現場にいるのだ。 事件を担当する村の警官ジョングは、ある日自分の娘に、殺人犯たちと同じ湿疹があることに気付く。ジョングは娘を救うためによそ者を追い詰めていくが、そのことで 村は混乱の渦となっていき、誰も想像できない結末へと走り出す――(公式HPより)
そして、コチラ。
- 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
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家族と過ごす感謝祭の日、平穏な田舎町で幼い少女が失踪(しっそう)する。手掛かりは微々たるもので、警察(ジェイク・ギレンホール)らの捜査は難航。父親(ヒュー・ジャックマン)は、証拠不十分で釈放された容疑者(ポール・ダノ)の証言に犯人であると確信し、自らがわが子を救出するためにある策を考えつくが……。
今気づきましたが、偶然にも両方とも娘を助けようと奔走する父親の話ですね。
「哭声」は韓国映画ですが、何と日本の俳優・國村隼さんが重要な役で、出演しています。
「國村」が「コクソン」と読めそうなのは意図的なのか、偶然なのか分かりませんが、結構ハードな役どころです。
一応、サスペンススリラーと紹介されていますが、ぶっちゃけるとホラーだと思います。そして、かなりグロいです。
怖いの苦手なんで、ビビりながら見てました。笑
でも、この映画を見て、サスペンスだと感じるか、ホラーだと感じるか(またはその他かもしれません)、人によって別れるところが、まさに肝です。
次に、「プリズナーズ」。
こちらはホラーだったりはしません。
行方不明になった娘を取り戻すために、半狂乱になる父親の話です。
暴力描写が苦手な人は、ちょっと目を背けたくなるところはあるかもしれません。
それで、何故この二作を取り上げたかというと、両方とも知識がないと、表面だけを見て終わってしまう作品だからです。
ぶっちゃけ、解説や考察を見てなかったら、私自身も、よく分からないホラー映画といい感じのサスペンス映画だな、くらいの感想しか持ちませんでした。
両者に共通するキーワードは、"宗教"です。
キリスト教ですね。
両方とも、聖書からの引用で始まっているので、大ヒントを与えられているのでしょうが、日本人の大半には縁遠いですからねぇ。
そして、そのキリスト教に関する知識を持って見ると、制作側の真意が見えてきます。
特に、「哭声」はストーリー的にも、その要素があって、登場人物たちの物事の捉え方で、命運が決まってしまいます。
結局、人は多くの場合、自分が見たいものしか見えない、あるいは見たいように見るものです。
こんな風に、映画に限らず、真意や真実を見落としている事が、たくさんあるのだろうと思わされた出来事でした。
今年印象に残った言葉③
どうせなら、3つとも書き終えて、新しいパンツに履き替えた様な、すかっとした気持ちで元旦を迎えよう。
芸術に賭けようとするくらいの人間なら、自己愛と自己嫌悪は猛烈に渦巻いている筈だ。それを殺すことはない。もっともっと激しくのたうち、からみ合わせる。その相克は人間の究極のドラマだ。しかし、乗り越える方法はある。乗り越えなければならない。それが芸術なんだ。-岡本太郎
私は結構、自己愛、つまりナルシズムと言うものに嫌悪感がありまして。
SNSなんかで、やたら自分の写メをupする人達とか、露骨に態度に出る人とか苦手なんですよね。
じゃあ、お前はどうなんだと言われると、あるんですよね、自己愛。
割合で言えば、9割くらい嫌いな部分なんですが、たまに自己愛を自覚してしまう瞬間がありまして、それがまたたまらなく嫌で。
自己愛が全くなければ、おそらく人間は生きていけないだろうと言うことは、承知してます。
でも、だからこそ、それを普段は嫌悪感で覆い隠して、見て見ぬ振りをしてるんです。
それで、思うわけです。
他の人はどうなんだろう、と。
自分と同じ様に、自己愛と自己嫌悪の揺り戻して参っている人や、自己愛がダダ漏れしている人はわかりやすいので良いのですが、そうではない方々は、どの程度自己愛に自覚的なのだろうと。
たぶん、たぶんですけど、ほぼ無自覚なのではないでしょうか。
きっと、生存の為に必要最低限な分量の自己愛には、無自覚なはずです。
臓器を動かすのと同じ様なものではないでしょうか。
そんな当たり前のことを掘り下げてしまうから、私たちは「あれ?呼吸ってどうやるんだっけ?」となって、窒息しそうになるんですよね。
書いていてバカバカしいですが、こう言うことを考えること自体、濃密な自己愛の垂れ流しでしかないんでしょうね。気持ち悪い。
岡本太郎氏は、『芸術に賭けようとするくらいの人間』に絞って発言されていますが、凡人も内側に自己愛と自己嫌悪を渦巻かせていてもいいのでしょうか。
アウトプットが出来ず、どこかで破綻するのでしょうか。
そんな全てをゆっくりと諦め、翌朝には萎んでいる風船の様に、この渦巻く何かをちょろちょろと漏らしていける日が来ることを祈って、新年を迎えようと思います。
みなさま、良いお年を。
今年印象に残った言葉②
2つ目は、ある本の中の1節で、かなり目から鱗のこぼれる言葉でした。
しかし、それを知ったのは他人様のブログでした。
最初はそのブログを引用させて頂いて書こうかなと思ったんですが、なんかそれも違うなと思いまして…。
今年印象に残った言葉②はお蔵入りにすることにします。
もちろんその本は、実際に読んでみたのですが、ブログでその一節を見た時の驚きは感じられなくて、ただ淡々と読み終えてしまいました。
しかし、繰り返し読めば何か掴めるんじゃないかと感じたのです、またしばらく間を置いて、再読したいと思います。
今年最後になるかもしれないブログが、こんなもやっとした感じでいいのだろうか。笑
今年印象に残った言葉①
今年、印象に残った言葉が3つありました。
3つともブログに書きます。
書くでしょう。
たぶん、きっと。
年内には。
早ければ年内には。。
いつかきっと。。
まず1つ目は、今年6月に癌で亡くなられた小林麻央さんの言葉です。
「人の死は、病気であるかにかかわらず、いつ訪れるか分かりません。例えば、私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。
『まだ34歳の若さで、可哀想に』
『小さな子供を残して、可哀想に』
でしょうか??
私は、そんなふうには思われたくありません。なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです」
年齢も2つしか違わないので、かなり衝撃を受けました。
会社に来る私と同い年のヤクルトの配達員の女性は、同じ子供を持つ親としての側面もあるからでしょうか、よりショックが強かったようです。
その時に、私が一番に感じた事は、小林麻央さんが「そんな風に思われたくありません」と仰っている事そのままでした。
それだけに、この麻央さんの言葉を拝見した時は、申し訳ない気持ちになりました。
そして、同時にハッとしました。
私は、物事の悲劇的な側面だけを抜き出して捉えてばかりだと思いました。
自分の人生を振り返った時、幸福な終わりを迎えた出来事など何もなかったと考えるのが常でした。
しかし、楽しい時間や幸福な時間は、間違いなくありました。
その事に気付かせてもらいました。
考え方を180度変えて、ポジティブ人間になろうとは思いません。
でも、これからは全ての事を平等に、そしてありのままに捉えていける様になれればと思います。
印象的な夢の話
他人の夢の話ほど、つまらないものはないですけどね。(どんな入りだ)
つい最近見た夢ではなくて、小学校の低学年頃に数回見た夢なんですが、すごく印象に残っていて未だに思い出します。
場所は、通学路の途中の緩やかな坂。
2車線で、進行方向右側は舗装どころか草刈りもまともにされていない歩道、左側は切石の歩道です。
とは言え、綺麗なものではなく植えられた街路樹の根が張り、でこぼこでした。
坂のちょうど中腹あたりには、同級生の家が建っています。
2階建ての白くて大きい家です。
父親が宝石商のような事をしていて、裕福な家庭だったと記憶しています。
そして、私はなぜか車道の真ん中に立って、その家を見ています。
しかし、その家や歩道、背後にあるそこそこ大きいホームセンターにも、人の気配が全くありませんでした。
車も一台も走っていません。
動くものが一つもなく、静かでした。
それで、何がそんなに印象深い(=奇妙だった)のかというと、朝なのか昼なのか夜なのか、全くわからないと言うことです。
人気や車の往来のない事を考えると、深夜なのかもしれませんが、それにしては周りがはっきり見えてるんです。
ただ、空だけが真っ暗でした。
曇っているのではなく、真っ黒なんです。
太陽はもちろん、月や星もありません。
暗幕をかけられた様でした。
見える範囲においては、きちんと立体感はあるんですが、視界の終わりぴったりに暗幕をかけられている、そんな感じです。
夜の帳が下りるのが見えたら、こんな感じかもしれません。
作り物めいていました。
奇妙な風景なんですが、恐ろしいといった感情はなく、当時も今も「魅力的だなあ」と思っています。
いつかあの風景を実際に見てみたいです。
ちなみに3才くらいの頃、その同級生と遊んでいて誤って、頭に鎌をぶっ刺して怪我を負わせてしまった事件がありました。
反省しています。
地球温暖化の影響で餓死するホッキョクグマ
地球温暖化の影響で、餌であるアザラシが居なくなってしまい飢えてしまったホッキョクグマだそうです。
餌を与える事は禁止されているため、しばらくのちには餓死してしまっただろう、との事です。
正直、地球温暖化というものを実感しているかと言われると首をひねるところではあるのですが、やはりこんな痛ましい映像を見ると認識を改めなければいけないのだろうと思います。
野生のホッキョクグマですら、こんなに痛ましいのにこれが自分の愛する動物や、そして人だったらと考えると…。
人間という種類が自らの過ちのせいで滅びるのは仕方ないのだとしても、罪のない動植物までも道連れにするのは、恐ろしく罪深い事じゃないでしょうか。
ミサイルを飛ばしたり、罵りあったり、信仰の違いで殺戮し合ったり、そんな事をしてる場合ではないのに、何故そんな狭い世界でしか物事を見られないのでしょう。
それとも、生き物とはその程度でしかないんでしょうか。
そんな程度の生き物が、地球の環境を捻じ曲げてしまえる様な力を手にしてしまったのが、不幸だったんでしょうか。